あとがき


マイツールは、千葉県館山の葬儀社に勤めていた 長谷川郁祐氏 と、浜松から東京へ出てきた 荒川博邦氏 によって生まれました。
その後、リコー社で取り扱われるようになり、マネジメントゲームの開発者・西順一郎先生の登場によって大きな化学反応を起こし、ここまで広がりました。

西先生は、「社長はマイツールしか使えない」「マイツールを長靴をはいて仕事をしている人に使わせたい」とおしゃっていました。

現在、当時を直接語れるのは荒川氏と西先生のお二人だけです。

わたしの使命として

マイツールで人生が変わった一人として、これはわたしの使命だと思い、荒川氏を訪ね当時の話をうかがいました。
本来なら会うことなど叶わなかったでしょう。けれども、SNSという時代の仕組みと月日の流れが、それを実現させてくれました。

荒川さんから話を聞くのは決して簡単ではありません。それでも、わたしが聞けた範囲をここに残すことは意義があると感じています。

マイツールを、今あらためて

ぜひ読者のみなさんにも、荒川さんがもがきながら世に送り出したマイツールに触れていただきたい。
マイツールは、いまではフリーウェアとなりましたが、今もなお仕事にバリバリ使える、他に類を見ない道具です。

マイツールは、単なるソフトではありません。
そこには「思想」があります。だからこそ、使っているうちに自然と仕事が良くなっていくのです。
その思想が宿っているからこそ、マイツールは今なお不思議な力を放ち続けています。

どうか、あなたもその思想を共有し、実際に体感してください。

荒川博邦 わたしの履歴書

1949年(昭和24年)7月10日、浜松市天竜の生まれ。お母さまは大正15年生まれで、昭和100年を生き抜いた。

小学生のころ、ソロバン塾に通っていた。ソロバンは飛び抜けてできた、楽しかった。でも学校の先生には「そのうち計算機ができるか」とソロバンはバカにされていた。荒川少年は、そんな計算機というもに興味を持ち始めた。小学校3年生のころだった。

中学、高校時代はバスケット部と陸上部を掛け持ちするほどだった。高校を卒業すると、東京に就職、NECに入社した。蒲田で独り暮らしが始まった。コンピュータがやってくる予感がしていた。そこで、駅前にある日本電子工学院の夜間部に入り、電子工学の勉強も始めた。

夜間の学校は、昼間は社会人の人ばかりだった。ここでも荒川は、年上の人に可愛がられた。自分の特技に一つなのかもしれない。先生には浜松の田舎っぺとイジられていたが、実は目をかけられていた。

学校を2年で卒業するタイミングで、長男だから実家のある浜松で就職しようと思い、東京を引き上げ浜松に帰った。そして、浜松のビジネスブレイン東京(現・ビジネスブレイン太田昭和)に就職した。21歳だった。そこでは、COBOLのプログラマの仕事をしていた。当時はSE(システム・エンジニア)なんていなかった。プログラムは書けるけど、お客さま会社のことを知ることから始まる。SEはお客さまだった。セミナー担当の仕事もしていた。そこで、マネジメントゲーム(MG)を開発した西順一郎氏と出会う。

後に、相棒になる安松隆ともここで一緒だった。荒川の方はあまり意識していなかったが、2年後輩の安松はしたっていた。荒川に言わせると「安松はプログラマとしては優秀だったけれど、人間的には変わっていた」ようだ。お互い様だった。

ビジネスブレイン東京がソフトウエア産業に参入することになり、荒川に白羽の矢が立ち、東京に単身赴任することになった。実は、NECを辞めて浜松に戻ったときに結婚していた。

東京でのはじめて仕事は、古巣NECのオンラインシステムだった。そのとき、荒川はパソコンを作ろうと思い、パソコンの研究をはじめた。当時の2大パソコンメーカーは、日本電産(NEC)とソードだった。NECのPC-8801とソードを比べ、性能が良くて安いソードのパソコンを選んで買った。

200万も出して買ったパソコンに説明書もマニュアルも無く、新小岩の本社に行った。荒川は、モノの売り方も知らない、変な会社だなーと思った。受付をしたのは社長の椎名堯慶だった。
椎名社長は「おっしゃる通りですね」「荒川さん、ウチに来てくれませんか」

このとき、PIPSの椎名社長に、商品になるまえのソフトウエア「PIPS」をおまけにもらった。

PIPSはPIPSユーザーの長谷川郁祐がこんな機能が欲しいといって、やっぱりPIPSユーザーの銀行員の望月洋がプログラムしていた。

荒川は、PIPSを使って椎名社長に「これはいいソフトですよ」と言うと、椎名は「そんなこと言われたのは初めてです」

椎名社長に「葬儀屋だけど、おもしろいやつが一人いる、会ってくれないか」と言われ会ったのが、長谷川郁祐だった。

椎名、長谷川、荒川の三人で会う。長谷川は開口一番「ソードは素晴らしいけれど、こんな売り方をしていたらいつか潰れる」という、そういう長谷川は「PIPS構想」を持っていた。そこで「ソードを売ろう!」ということで意気投合した。
「PIPSは何が素晴らしいかわからない」ここから構想がはじまった。
荒川は、地元の代表的な企業の一つ「YAMAHA」の音楽教室をモデルに、生販分業を椎名社長に提案した。そのとき、椎名社長にそこまでの覚悟が、ソードにその実力があったかわからなかった。
その後、新宿センタービルに「ソードビジネスコンサルティング」を設立し、パソコン教室を開いた。

東京での仕事が面白くなって来たことろ、浜松に呼び戻された。そのタイミングで会社を辞めた。
浜松でフラフラしていると、長谷川さんが浜松まで会いに来た。「東京に来てくれ」「一緒にソフト会社を作らないか」。荒川は、ためらうことなく承諾した。

荒川は、千葉の館山に行って、長谷川さんの葬儀屋のフランチャイズシステムを作ることになった。
これからパソコンの時代だと思っていた荒川は、一方で「マイツール構想を作り始めた」

東京に単身赴任すると時間ができたので、浜松でセミナー担当をしていたときに知り合った西順一郎を訪ねた。西は横浜でちょっと尖ったビジネスマンを集めて定期的に「西の会」を開催していた。そこに荒川も行った。

西の会では「先端企業見学会」があった。そして、館山の長谷川の三和仏商に来たときだった。その会に、リコーの小田島さんがいた。小田島さんは、一つのプロジェクトを抱えていた。電卓で失敗したリコーがパソコンに参入しようかどうか迷っていた。そこで荒川は、自分のマイツール構想を小田島にプレゼンした。プログラムなどもまだない状態のマイツール、紙芝居のようなプレゼンだった。

それを見た小田島は、荒川に「荒川さんいつからリコーに来てくれますか?」と言った。荒川はためらいもなく「月曜日から行きます」と答えた。

リコーの元で、荒川のマイツール構想が企画書となって行った。小田島から、「荒川さん、リコーは個人にはお金が払えないから、法人を作ってくれないか」と言われた。

荒川は、ことの経緯を西順一郎に話すと、「それはいい、社名は、『イージー・コンピュータ・システム』にしたらどうか」と言われ、荒川はその通りに会社を設立した。

荒川が31歳のときだった。

マイツールはリコーの前にYAMAHAにも売り込みに行っていた。マイツールの話を荒川は持ち前の人懐っこさでエレクトーンの生みの親の専務に持っていった。が、木目のパソコンを作って失敗していたので「ウチでは無理」という返事だった。しかし、専務はマイツールを「荒川さんの人格と性格のようなソフト」と評価した。

コマンドは言葉なのだ』もぜひあわせて読んでみてください。きっとマイツールのことを、もっと好きになっていただけると思います。

今日は2025年9月8日。
西順一郎先生の88歳のお誕生日です。

この日に、荒川博邦さんが幹事で「西順一郎先生の米寿を祝う会」が、アルカディア市ヶ谷で開かれます。日本全国から108名もの方々が集まりました。その中には、荒川さんの相棒であり、マイツールを実際にプログラムした安松隆さんの姿もあります。

いま世の中では、AIがわたしたちの働き方を大きく変えようとしています。けれどもAIもまた「言葉」を使ったプログラムです。そう考えると、マイツールと同じ「言葉でやりとり」する道具。もしかすると、AIとマイツールの相性は良いかもしれません。そんなことを考えています。マイツールを使っている人は、自然と「言葉で考え、言葉で操作する力」を身につけています。その力があれば、AIもきっと上手に活かせます。

どうか、みなさんもマイツールで人生を豊かにしてください。信じてください。必ずできます。そして、新しいマイツールの使い方を見つけたら、ぜひわたしにも教えてください。

この「20週マイツール講座」が始まったのは、新橋にある印刷会社を経営する國澤良祐さん(58歳)から「マイツールを教えてほしい」と頼まれたことがきっかけでした。わたし一人では、とてもここまで書き切ることはできなかったと思います。國澤さん、そして國澤さんが集めてくださったマイツール仲間のおかげで、この20週を最後まで走り抜けることができました。ありがとうございました。

そして何よりも、マイツールを生み出した荒川博邦さん、そして「MG、マイツールで企業革命」「社長はマイツールしか使えない」と全国の中小企業の社長たちに教え続けてきた西順一郎先生のおかげです。

半世紀前、偶然のようで必然だった多くの出会いの中から、マイツールは誕生しました。そしていまもこうして、マイツールを道具を相棒として使い続けていられることをありがたいと思います。

テクニックというと小手先にもののように聞こえるかもしれませんが、それらはすべて、マイツールで新しい気づき、発見、ひらめきを得るための工夫と思ってください。

20週にわたりお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

2025年9月8日
株式会社コンピュータリブ
中島正雄(マヒマヒ)


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